過去の挫折と真剣に向き合ったからこそ、今日も看護観持って人に「ありがとう」が言える自分!

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 (尾道・福山で少子高齢化対策に走るデイサービス希望看護師)

今回も私の記事をご覧下さり、誠に感謝です!

私がなぜ看護師を目指したのか?そして、なぜ”介護予防関連のお仕事”を懸命に意識しているのか?

それをお話するには、まず私の中学時代からお話しなければなりません。

 

私は、中学生の時に大きな事件に巻きこまれました。それこそ「もう、死んだ方が良い」と思う位のこの記事では語れない位の・・・実際自殺未遂を2回図ろうとしたけど、「死への恐怖」のおかげでなんとか踏みとどまれました。

ここまで話せば、おそらく皆様もお察しされてるとは思いますが、それは校内暴力(毎日のい〇〇・集団リン〇)です・・・いやその言葉では生ぬるいかもしれません。ちなみに私の中学1年・2年の教科書の大半は牛乳とかつけられて破れたりボールペンの暴力的落書きでメチャクチャです。

しかも行った当事者の半数はおそらく「行ったという自覚」は当然ありません(今現在でもです!)。

その事件がきっかけで中学卒業前にPTSD(心的ストレス外傷)を患い、かつ、喘息にも罹りました。その直後中学卒業前に、高校も志望校の受験は不合格、希望よりも遠方の高校に通う事になりました。

その後、半失語症状態で他人とのコミュニケーションにも恐怖症・強烈な脱毛症も起こり、それでも泣きながらも学校に通ったものでした。

「もう、生きる事に何の魅力もない」と諦めてしまいそうでした。

 

しかし、そんな私にも転機が訪れました。それは、高校2年の時ある英語の新任教師との出会いでした。

その先生は、私が今まで見てきた先生方の中で一番尊敬出来た先生でした。

 

その先生は

「どんな成績・スポーツが苦手な人間でも、大物になれる可能性を秘めている。私も昔、成績は高校3年までビリだった。でも諦めない心と明るい未来があるって信じて死にもの狂いで机にかじりつき、時間を懸命にかけた。そして早稲田大学に行けた。藤原もその可能性沢山持ってるんだぞ!」

って毎日、私に笑顔かつ真剣に語りかけてくれました。先生が語りかけてくれる度に私は泣いてばかりでした。

英語は苦手でもその先生の授業は好きでした。

 

その後、少しずつ人間不信を治していきたいという気持ちが強くなり、一か八かのショック療法的な形でしたが、高卒後に(人と嫌でも沢山話するきっかけの場が多い看護職に挑戦したいと思い)看護学校に通う事になりました。

病院で”看護補助”としてバイトして学費と生活費を稼ぎながら、学校に通いました。

看護師になるまでの道は本当に険しくPTSDもまだ、完治はしてなかったので人とのコミュニケーションには本当に苦労と迷いと挫折の連続でした。

何百回も「もう、学校辞めてやる」と思いました。そのような中で、出会った病院の患者さん、学校の一部同級生や近所の親友とかの支えが、私に”生きる力を”くれました。

 

特に患者さんから「あなたがいるから私も元気になろうと思えるのよ、ありがとうね」とか笑顔で手を握って言ってもらった時にはどれだけ、うれしかったか今でも忘れられません。

その患者さんの中には末期がんの方とかも沢山いらっしゃいました。そんな方々がご自分の命よりも私の身を案じるのです。私はここに「リアルな本物の感謝!」を見た気がしました。

 

そして、そのバイト先でのある事件がまた、私にとって大きな人生の転換期になりました。

それは・・・

ある日、自殺未遂をはかろうとした男性患者さんがいて、私がそれを止めた事がありました。

その人が「わしはもうすぐ死ぬんじゃー!死なせてくれー!」とパニックを起こしていました。

その時、私はなぜか反射的にその患者さんに怒鳴ってました。

「死ぬなんて、簡単に言うんじゃないですよ。死にたくても泥水すすってでも生きている人がこの世には沢山いるんですよ。あなたの命はあなただけのものではないんです!」って。

もう、完全に病院クビ覚悟の発言でした!なのになぜか”言わないと絶対後悔する”って私の何かがそうさせたのだと思います。それと同時に、この患者さんの真の苦しみに共感するという認識を飛び越えて”怒鳴る”という行為は無責任だったのかも・・・とずっと気にしていました。

 

3日後、その患者さんは息を引き取りました。その患者さんの奥様が私に「主人が息を引き取る前に、藤原さんに”ありがとう”って伝えといてくれ!と遺言がありました」と・・・。私はそれを聞いて、その患者さんの最期は本当に前向きな生き様だったと、感じました。

そしてその時、その患者さんから教わりました。本当の意味で人(自分)の傷ついた心を本気で救えるのは「リアルな勇気と人の支え」だと!

 

一時人生を放棄しようとした私、けど、もう”いつまでも時が止まったままでは駄目だ!”と知り、真剣に自分の完全に治ってないPTSDを確実に克服しようと強烈に自覚した瞬間でした。

 

その後、准看護師・そして正看護師となり、PTSDもとい人間不信も24~25歳ごろでほぼ克服出来、きちんと相手と同じ目線でモノを喋る習慣を身に着ける事が出来ました。もちろん看護師資格が取得出来たのは私一人の力ではありません!仲間や先生・職場の同僚・患者さん・・・そして家族の支えあってのものです!

 

その後、医療の現場で病院経験8年、介護現場3年位の計11年の経験を積む事になるのですが、その医療・福祉の現場が、今なお窮地に向かい始めている現状をリアルに現場で働き、思い知る事になります。

 

私のPTSDを治すきっかけを与えて下さった多くの方々に感謝でいっぱいです。もし、彼らがいなかったら今頃私もこの世にいなかったかもしれないのだから・・・。

 

本当に「ありがとうございました!」なのです。

 

だから、今自分を立ち直らせてくれたその医療・福祉業界がピンチだというのなら、それを改善できる働きがしたい!そのためにはこれからも更に多くの学びと経験と人とのつながりが必要になります。

だから、医療・福祉を取り巻く問題(次回記事でお話しますが)に積極的に向き合う事が、私を信頼しこの世を去った方々や今なお頑張っている方達に報いる事にもつながると信じて、徹底的に動きたい所存です。

 

まだまだ、至らない事も多くあるかもしれませんが、今後ともよろしくお願いします!!

 

※ 皆様、貴重なお時間の中、記事をお読みいただきありがとうございます。
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皆様の応援が、私の更なる活動の活力につながります。

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2 comments to this article

  1. 有光 武文

    on 2014年10月12日 at 3:56 PM - 返信

    私と同じ様な経験をお持ちで、驚いています。中学3年の冬に「結核性脳膜炎」と診断され、父母は「息子さんは生まれて来なかったものと思って下さい。」との宣告を受けていました。それを聞いた私には、却って、病に対する対抗心が湧きあがっていました。そして、その年の高校入学試験に挑戦する決意を固め、大阪府立北野高校を受験し、なんとか合格。親友に支えられ、京大法学部にも現役合格しました。
    その過程で、精神科医の柏木氏(親友の一人)とも協議し、「ホスピス」を立ち上げました。これが「淀川キリスト教病院、ホスピス病棟設立」となったのです。現在、ホスピスのシステムを持つ病院数は、325に上っています。
    柏木哲夫著(阪大名誉教授、金城学院大学学長)「生と死を支える」をご一読されることをお勧めします。

    • 藤原 理史

      on 2014年10月19日 at 12:39 PM - 返信

      藤原 理史

      貴重なコメントありがとうございます!まただ、ブログになじんでなくてお返事遅くなりすいません。

      ご闘病の末に、自身の道をこじ開けたところがすごいですね!ホスピスのご職業を選ばれたのも納得できます。

      この世の中、小さい頃から「生きる選択肢」すら与えられず、未だに路頭に迷う若者は後を絶たない状況です。

      私が今いる岡山にしても重大性高い問題です。

      そして、医療や福祉は地域と密接に繋がっています。私達がやっているお仕事が単にいち組織視点のものではないという事も改めて秘めたうえでお互い頑張りましょう!

      ご紹介の著書、ぜひ、拝見できたらと思います。貴重なアドバイス、感謝致します!

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